Live paintingのお知らせ
君の事を思い出したくて、筆をとった。
瞳を描いてみた、泣き出しそうだった。
僕は笑っている瞳を描きたかった。
君の瞳は頑にそれを拒んでいた。
君の事を思い出したくて、絵の具を出した。
瞳を塗ってみた、哀しい色になっていた。
僕は笑っている瞳を塗りたかった。
君の瞳は泪でそれを流していた。
君の事を思い出したくて、君を思い浮かべた。
瞳を思い出した、寂しく潤んでいた。
僕は笑っている瞳を思い出したかった。
君の瞳は瞬きもせず僕を見つめていた。
君の事を思い出していて、君の想いを知った。
瞳を思い浮かべた、詞なく瞼閉じた。
僕は笑っている瞳を君に見たかった。
君の瞳は僕に凭れ微笑みたかった。

☝
みんな、ありがとう!m(__)m
瞳を描いてみた、泣き出しそうだった。
僕は笑っている瞳を描きたかった。
君の瞳は頑にそれを拒んでいた。
君の事を思い出したくて、絵の具を出した。
瞳を塗ってみた、哀しい色になっていた。
僕は笑っている瞳を塗りたかった。
君の瞳は泪でそれを流していた。
君の事を思い出したくて、君を思い浮かべた。
瞳を思い出した、寂しく潤んでいた。
僕は笑っている瞳を思い出したかった。
君の瞳は瞬きもせず僕を見つめていた。
君の事を思い出していて、君の想いを知った。
瞳を思い浮かべた、詞なく瞼閉じた。
僕は笑っている瞳を君に見たかった。
君の瞳は僕に凭れ微笑みたかった。

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みんな、ありがとう!m(__)m
Exhibition のお知らせ
25の時、ニューヨークで絵に出会った。
以来、絵だけは描いてる。
慢性的に金の無い暮らしを過ごして来た。
でも、絵だけはやめなかった。
多くの仲間が脱落して行った。
新たに仲間も出来た。
住処も転々とした。
でも絵の具だけは絶やさなかった。
何度もつまずいた。
どうして描くんだろうと悩んだ。
絵が売れた事もあった。
不安を背負った暮らしだった。
無くすもんはなくした。
絵を描く事をやめる事は出来なかった。
出来る限りの想いを筆に託した。
様々な形が表れた。
あらゆる色が現れた。
見えない時もあった。
絵だけは描きつづけている。
絵は美しい物だった。
絵の向こうにいつも女性がいた。
女性は常に美しく微笑んでいた。
描き留めたかった。
自分の絵筆でその美しさを描きたかった。
時には姿を現した。
色彩はいつも美であり女性だった。
歌う女性の姿をよく描いた。
ビリーホリディ、ニーナシモンの歌声が
色彩になり姿になった。
でも、それは絵だった。
この春、自分が求めていた美しさをみた。
美しい女性が美しい声で歌っていた。
彼女の歌う姿の前に自分の絵が平伏してしまった。
どれだけ美しく描こうがそれは絵だった。
人は美しい、改めて教えを請うた。
まだまだ絵を描きなさいとの暗示だった。
彼女の姿は自分の前に現れた菩薩だった。
絵だけは描いて来た。
これからも絵だけは描いて行く。
彼女が微笑んでボサノバを歌ってた。
「そうしなさい」と聴こえた。

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みんな、ありがとう
以来、絵だけは描いてる。
慢性的に金の無い暮らしを過ごして来た。
でも、絵だけはやめなかった。
多くの仲間が脱落して行った。
新たに仲間も出来た。
住処も転々とした。
でも絵の具だけは絶やさなかった。
何度もつまずいた。
どうして描くんだろうと悩んだ。
絵が売れた事もあった。
不安を背負った暮らしだった。
無くすもんはなくした。
絵を描く事をやめる事は出来なかった。
出来る限りの想いを筆に託した。
様々な形が表れた。
あらゆる色が現れた。
見えない時もあった。
絵だけは描きつづけている。
絵は美しい物だった。
絵の向こうにいつも女性がいた。
女性は常に美しく微笑んでいた。
描き留めたかった。
自分の絵筆でその美しさを描きたかった。
時には姿を現した。
色彩はいつも美であり女性だった。
歌う女性の姿をよく描いた。
ビリーホリディ、ニーナシモンの歌声が
色彩になり姿になった。
でも、それは絵だった。
この春、自分が求めていた美しさをみた。
美しい女性が美しい声で歌っていた。
彼女の歌う姿の前に自分の絵が平伏してしまった。
どれだけ美しく描こうがそれは絵だった。
人は美しい、改めて教えを請うた。
まだまだ絵を描きなさいとの暗示だった。
彼女の姿は自分の前に現れた菩薩だった。
絵だけは描いて来た。
これからも絵だけは描いて行く。
彼女が微笑んでボサノバを歌ってた。
「そうしなさい」と聴こえた。

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みんな、ありがとう
猪飼野物語『在日の娘』

「8才の時に日本に来て、苦労したんや日本語、御幸森小学校にはいってなぁ・・」
いつも行く桃谷の立ち飲みで久し振りに聞いた在日一世の言葉だった、何回も顔は会わせていたが在日だったとは知らなんだ。
教室で子供達になじられたりしてさぞかし辛い思いをしたんだろう、彼は永く心の奥に封印していたかも知れない想いを僕のそばに寄って周りの客に気付かれる事なく言った。
在日と云う出自を伏せておきたかったのか僕には解らない、むしろ僕の様に、まあ僕は映像作品とかで自分のアイデンティティーをテーマにしたりしているから知られる事になってしまうけど、自ずから在日と公言する人は少なく、日本の名、創氏改名によって付けられた日本名をそのまま通名として使い続けている人は多い、それに在日と云っても半数以上の人は日本国籍に変っているわけだから、本名のまま日本国籍に変ってる人もいるが多く人は通名が本名になってる。
彼とて今でも朝鮮半島の国籍かどうかは知らないが、例え日本国籍に変っていても自意識の中にアイデンティティーとして在日があるのだろう、それが僕にかけた言葉になったと思う。
一文字名前であろうと二文字だろうと、一世たちがそれぞれに言葉の苦労をして来た事は変らない。
中学校に進学する時に僕たち在日生徒は二文字から一文字になった。
読み方は日本語だったが、それまで使われてた通名は学校の方針で使われなくなって、林とか柳のように通名が一文字だった人を除き殆どの生徒が一文字に変ったが、二文字のままで変らない生徒もいた。おそらく朝鮮でも非常に少ないと思われる二文字名前、「皇甫」と云うその苗字は皇の字が含まれているくらいだから相当に身分の高い家系の名ではなかろうかと思う、日本では天皇の皇が苗字に付けられているなんて先ずは考えられない。
一文字苗字になったとたんに同姓が増えた、元々苗字の数が少ないので、ただ一人だけの苗字は例の皇甫さんを除いて他にいなかったと思う、金さんになるとひとクラスに3、4人は居るんやないかと思うくらい、同姓だらけになった。
中学校で一世の彼が日本語の苦労をした御幸森小学校からきた生徒達に始めて合流することになった。
僕たちの小学校も三割くらいが在日児童だったが、日本最大の在日居住区、猪飼野でも最も密集している猪飼野中地域を校区に持つ御幸森小学校での在日児童の占める割合は6割近かっただろう、近くには東大阪朝鮮第4初級学校(小学校)もあり、ここも大阪市内で数カ所ある朝鮮初級学校で最も生徒数が多かった。
猪飼野中は御幸森通商店街を挟む様に南北に広がる地域で、近頃は休みの日ともなれば韓流を求めて来るご婦人方で賑うコリアンタウンとして観光地化された場所になっているが御幸森通は嘗て、家具屋、電気屋、呉服屋、煙草屋、魚屋、肉屋の合間に朝鮮の蒸し豚、キムチ、唐辛子などの食材を売る店やチマを作る生地を売ってる店があって、日本の人からは御幸森商店街、在日からは朝鮮市場と呼ばれ地域住民の生活に寄り添った商店街だった。
商店街の南北に沿って並ぶ長屋群は殆どが在日住民で占められ、御幸森通に交差する路地の長屋の軒先では、豆もやしや甘鯛の干し物などを並べて売っているアジュマ達の姿なんかも見られた。
そんな在日密集地帯の猪飼野中を校区に持つ御幸森小学校から生徒と始めて出会う事になる、悪いのも良いのも御幸森小学校出身の在日生徒が目立った、在日の密集度が高い地域で育ったせいか負けたらあかん(日本人に)が僕たちよりも強かったのかもしれない。
その商店街を取り囲む地域では家内工業を営む家が多かった。其の名の如く家内工業というのは家の中に仕事場があって、家族が仕事に従事する事で経費を切り詰めているという、嘗て、日本の高度経済成長を支えて来た末端の企業形態だ。
就業差別もなく自己負担が出来る基本財力さえあれば始められる家内工業は職の選択が限られている在日には打ってつけの選択だったのだろう。
家内工業である事は、家も仕事場で家族が従業していると云うことが基本になる、そうする事で経費を押さえられ低単価の注文にも応じていける。発注する方側からすれば都合の良く使える下請け形態で、さらに単価を下げる為にその下請先を中国等、工業後進国に替えて行った日本企業の自己本位な体質が日本全体の工業力の低下を招き、家内工業、零細企業が多く占める生野の様な町の衰退を招いた。
今、アジア各国に各分野での工業力が越えられてしまったのは正に自業自得である。
家内工業では女性は働き手として欠かせない存在だった。大型機械を動かす様な仕事は少なく、どちらかと云えば手作業のこまめさが必要とされる仕事が多く男より気配りに長けてる女性の方が適正があったのだろう、ヘップの貼り子さん、プラスチック成形の型抜きなど女性が従事していることが多かった。
それに付け加えて猪飼野は済州島出身の在日が多く、済州島は三多、『石と風と女が多い』と云われる島で、石が多いと云うことは農地に適した土地が少なく、風が多いのは漁業でも小型船舶では海難事故に遭う危険性が高いため、潜水漁が主となって島の多くを占める岩場海岸で女性達が海女としてアワビやサザエを採り生計を立ていると云うよな男の仕事が少ない島で、それゆえ『済州島の男は働かない』なんて事が言われる。
猪飼野でも在日の女性はよく働いていた、友達の家を訪ねた時でも母親が出て迎えてくれる様な家は少なく、よしんば迎えに出たとしても仕事姿の母親が多かった。
僕の家も小学校6年で親父が亡くなるまで家内工業よりは少し大きい程度のゴム風船作りの町工場を経営していたが、夏休み、冬休みともなると僕と同じくらいの女の子が働きに来ていた、彼女達は自分のお小遣いを稼ぐ為ではなく家族を支える為に働いていた、まだ貧しい時代だった。
僕の姉達も働かせられた、僕のところはどちらかと云えば近所では比較的裕福な方だったけれども、済州島の男である親父には『女は働く者』だった、当然、教養も女には不要の物だった、上の姉二人は義務教育を終えると有無を云わさず家で働かされた、決して勉強が出来なかった訳ではない姉達は昼間の高校に進学する事を諦め、働き乍ら定時制高校に通う事を選択せざるを得なかった。今でも、その決断をした夜に姉が部屋でひとり泣いていた姿を垣間みた事を思い出せる。
男は、我が家で云うなら軟弱に、甘やかされて育てられた。
男尊女卑がそのまま家風になっていた、風呂の順序も親父が一番最初で男が入り終えてから残り湯に女が入るのが普通だった。当然、進学も勉強が出来ず公立に行けなくても高校には行かして貰えた、僕を含めて5人の男兄弟のうち人並みに勉強出来たのは3番目と末の僕ぐらいで後は私立だった、今でこそ私立の在日差別は薄れているかも知れないが、当時は在日が私立へ進学するとなると余程勉強ができるか金を出せるかのどちらかだ、まあ勉強が出来ていれば公立に進んでいたと思うが。
直ぐ上の兄に至っては中学校から私立だったが、卒業前に学業が終わっている。
僕は小学校6年生までしかそんな家風で暮らしていなかったので、少しは兄たちよりもリベラルに育ったと思う、それに何故だか僕は姉達と仲が良かった、何かと云えば手を振り上げる直ぐ上の兄を避けるためだったと思うけれども、姉達の遊びに好んで付合った、姉達が貸本屋で借りて来る月刊誌の『りぼん』や、お小遣いを出し合って買う週刊誌の『マーガレット』『フレンド』の回し読みの輪に入っていた。
小さい頃から絵を描く事が好きだった僕はこの頃の少女雑誌に出て来るヒロイン達を模写して下敷きに描いたりしていた。思えばこれが今でも女性を好んで描く僕の原点だったかも知れない。
僕は今まで在日の女性を彼女として付合ったことがない、アメリカ人が一人いただけで彼女以外は日本の女性しか付合ったことしかない、言ってもそんなに沢山の彼女がいたわけやないけど。
在日の女性を避けていたつもりはないが今まで機会がなかった、初恋と言っても少年期の事で勝手に想いを抱いて丈のことだが、初めて好きになった娘も在日だったし、その後も何度か好意を持った娘がいた。高校生になったら交際を申し込みたいと思っていたトンテッパン(東大阪朝鮮中級学校)の娘は高校に上がる前にさっさと彼女の祖国に帰ってしまったし、高校生の時に朝鮮高校の女学生と知り合いになりたくて、朝鮮舞踊と日本の名カメラマン宮島義勇が朝鮮で撮った映画『千里馬』を上映、この事が後に僕の韓国公民権停止になる要因の一つになったわけやけど、と言う企画をして朝鮮高校の舞踏部の生徒に我が校へ来てもらい朝鮮の踊りを舞ってもらった時も、彼女達が踊り終え、さてこれから懇意になろうと思ってた矢先、彼女達を待ち受けていたのは引率の先生でろくに私語を交わす事なくさよならしてしまった。
僕が初めて好意を抱いた女の子は中学校で同級生になることになる御幸森小学校からきた女の子で、男の子からの視線を集めるようなアイドル的な可愛いタイプではなく、質素で知性を感じさせる今では死語になりつつある清楚と云う言葉がピタリと当てはまるような美人だった。
僕は自分の事は省みず昔から知的美人が好きだった。
中学校では男の子達の気持ちを惹き寄させる様なちょっと派手で大人びた可愛い娘は何人かはいて、その中でも中川小学校と御幸森小学校からの一人づつが男の子達の人気を二分していた。
僕等の時代は、小学生ぐらいでは女の子を好きになるなんて事はまだ恥ずかしく、中学生になって身体に変化が現れ始め出してから感情として好きだと云う気持ちを認識しだす、でも小学校からずっと一緒だった女の子を想うのは些か気恥ずかしさもあり、中学校で新しく出会う子の方がこだわりが少なくて済むので、同じ出身校でない女の子を好きな女の子に選ぶ傾向が強かった、御幸森の男の子に人気があったのは中川の女の子と云う風に、でも御幸森から来てた女の子の方がどちらかと云えば可愛い娘が多かった様な気がしていた、そう思ったのも多分に僕が中川出身だったからだろう。
いくら好きだと思っても中学生くらいで交際に発展する事など殆どなく、よしんばそうなったにせよまだまだ人には伏せておく様な奥ゆかしさがまだ残ってたような時代だった。
僕が想いを寄せてた彼女チへに僕の知る限りもう一人、僕の友人も彼女に想いを寄せていた。
ライバルだったわけだ、然しこのライバルは強力すぎた、彼は野球部のエースで後にプロ野球まで進むくらいの我が校のスーパースターだった。その彼チフンとてチへと交際していたかは判らない、人目を気にせず手を取り合って歩く事などままならない、まだそんな時代だった。
僕に至ってはチへの名前すらまともに呼べないで、彼女は「ゲン君」と声を掛けてくれた時になんて言って答えたのかも思い出せないくらいだ、勿論呼び捨てなんか出来ていなかったと思うし、フルネームにさん付けで答えてたのか、僕の知る限り僕は彼女と視線が会うと固まってしまっていたから。
チへは勉強の出来る娘だった。僕と違い普通科高校から大学進学も無理ではないくらいの成績だったのに彼女が選んだのは商業科高校だった。
彼女の家も決して貧しくはなく、工場経営をしていてどちらかと云えばこの地域では裕福な方だ、僕は彼女が自らの意思で商業科を選んだのかは知らない、然し、どうしても同じ済州島出身の男である彼女の父親と親父の姿が重なってしまう、彼女もまた『在日の娘』だった。
中学生の時にはろくに言葉も交わさなかったのに、中学校出てからいつだったか喫茶店でチへと会ったことがある。どう言う経緯だったかよう解らへんけど、猪飼野東4丁目バス停留所前の喫茶ローマで会った。僕はもう大人としての女性との付き合い方は知っていた、でもチへの前での僕は中学1年生のままだった。
チへは相変わらず清楚な娘でいた。
小学校の時に、家の家計を支えるためにウチに働きにきてた同じ年の少女も、女に教養は不要だと昼間の高校進学を断念させられた上の二人の姉も、僕が想いを寄せていたチへも、、彼女達だけじゃなく、中学校を出て直ぐに働き出したヘップの貼り子さん達も、友達のヤスの上の姉も、『在日の娘』だった。
在日、済州島、の男たちの傲慢さを受け止め、不条理な境遇にもめげず強く活きている、そんなイメージを僕は在日の女性に持っていたのかも知れない。
その事が在日の彼女が出来なかった事とは余り関係ないと思うけど、縁はなかった。
ニューヨークに住んでた時は結構コリアンの女性に好意を持たれる事があったけれども、彼女達は在日ではなく、それにその頃の僕は一応既婚者だったから、、。
1986年にそれまで同棲していた彼女と結婚して大阪の弁天町に一年程住んでた時、突然チへから電話があった。
大阪の枚方市が市制40周年を記念して韓国のサムルノリ、キム・ドクスのグループの公演をやるのでそのポスターの為の絵を依頼され描いた事があった、猪飼野で育ったチへはその頃枚方市に移り住んでて、そのポスターを目にして、小さくクレジットされた僕の名前を見つけ出してくれた。
市役所に問い合わせて、プライバシーに関るので教えられないと言うところを何とか説得して僕の家の電話番号を訊いたらしかった。
僕にはすべての緊張が溶けた瞬間だった、思えば、12才の時に想いを抱いてから初めて交わす会話だった。
20年近く掛かってしまったけれども、普通に話せた、何よりも彼女が僕の事を覚えていてくれたのが嬉しかった。
電話の最後に「近いうちに会おうや、電話するは」僕が言って「待ってるは」と彼女は相変わらず清楚な声で受話器を置いた。
電話はしなかった、5年近く同棲生活を経て結婚した妻と住む家からチへの処へは電話出来なかった、もしすれば想いが揺らぐのを止められない自分になるのが判っていたから。
僕は在日の娘と付合った事はない、
好きになった娘はいたけれども。
猪飼野物語『長屋の町(2)』

玄関を開けると、土間に差し込む光だけで、続きの畳間には殆ど灯りは届かず昼間でも薄暗く、奥まで行けば裏の家との排水路の幅分だけの間から僅かばかり光がさした。
光が届かない分、昼間から部屋に灯りを点さねばならず幾分湿気た空気の漂う、長屋に住むヤスのところへは学校の帰り路だった事もあって毎日の様に寄り道した。
中学校になればそれぞれが部活等で帰宅時間に違いがでるのでその頻度は幾分落ちたが、それでもヤスの家へ行く事は中学校を卒るまで続いた。
小学校3年くらいからの遊び仲間だった、空き地でソフトボールをやったり、淀川まで行って釣りをしたり、瓢箪山まで皆で歩いて行って、日没になっても帰れなかったから捜索願を出された事もあった、いつも何人かが一緒だった、そして決まった様に溜り場にしてたのがヤスの家だった。
ヤスの家もこの町に多い家族構成の見えない家庭の一つだった。
彼は日本人の母親と在日の父親との間に生まれ、もう一人の姉と母親の姓を名乗り日本人で、彼等の上に同居はしていないがよく家に来る在日の兄と姉がいた。
ヤスの母親が亡くなった親父が残した二人の子供を引き取ったと云う事だ、その二人の母親も違うかったらしい、そんな事が解ったのは時間が経ってからの事で、僕等には普通の家族でしかなかった。
小学校3年から中学3年まで、どのくらい頻繁に通っていたのだろう、ヤスの兄姉とかも親しくしていてくれて、この家が他所の家である事を忘れてしまってたぐらい、僕は通いつめた。
何よりも、ヤスの母親が自分の息子と同じ様に僕たちに叱るときは叱ってくれるような、僕たちを他人扱いせず応対していてくれてた事が大きいかったと思う。
僕は2才の時に母親を亡くしている。
物心ついたときは、継母がいた。兄姉達は亡くなった実母をよく覚えていて、親父の後妻には馴染めなかったようだが、直ぐ上の姉と僕だけが実母をあまり覚えてなく、僕なんかは一緒に暮らした事もなかったので、抵抗無く新しく来た母親を受け入れられてたようだ。
幼い頃、兄や姉たちは僕たち二人に気遣って亡き母親の事は語らず、法事の時でも母親の遺影は外され誰の法事か知らされぬまま行われていた。遺影が祭壇に戻ったのは親父が亡くなってからで、その頃には僕も生母の存在をとうに知っていた。
例え、言葉に出さなくても兄や姉達の振る舞いから気付かない訳はなかったけど、生まれてから病院生活続きの母親と暮らした事のない僕の記憶には生みの母親の姿はなく、兄姉の様に母親を想うことが出来なかった。
僕にとっての母親、継母は家の事はあまりせず花札に興じ、頼母子講の元締めをして日々を過ごしている、今風に云えば財テクに奔ってる様な人で、殆ど家事をしない継母に代わって、僕の家で家事を取り仕切っていたのは長兄の嫁だった
義姉からすれば長兄のところへ嫁いだつもりが、母親が亡くなっていきなり大家族の面倒をみなければならない状況になったわけだ、おまけに家族だけではなく住み込みの工員さんまでいたから、その苦労は計り知れなかったと思う、彼女は実も義理も含めて兄姉の中で一番早くに亡くなっている。
家族揃って食事をすることが少なかった、なんせ兄夫婦と合わせると二世代の大家族になるわけだから、全員揃うとなるといくら広いダイニングとはいえ間に合う広さはなかった。
町工場の宿命だろうか平日は食事を取る時間を合わせる事もままならないで、食べれるものから次々に食事は済ました。
それでも休みの日とかは出来るだけ家族揃って食事をする様にしていたが、ヤスの家では毎日が家族団欒の夕食風景だった。
ヤスの家庭も決して単純な家族構成でない、亡くなった親父に母親の違う子が一人ずついて兄、姉になる、そしてヤスの母親に二人、ヤスと姉がいる、苗字も国籍も違う、それでも一つ屋根の下で彼等は家族だった。
苗字が違っているのは、嘗ては日本の女性が外国籍の人と正式に結婚していると自分の子供に日本の国籍を継がせることが出来なかったから、その為に入籍はせず事実婚の形を選択する日本女性が多かった。当然、生まれて来た子供達は非嫡出子として扱われたわけである、女性が自分の子供に国籍を継がせる権利が日本で出来たのは、そんな遠い昔ではなく、つい最近と言える1980年代の事だ、おかげで僕の娘も日本国籍を持つ事が出来た。
苗字が違っていようが彼等は家族だった。
ヤスの家で僕たちも苗字じゃなく名前で呼ばれていた、名前で呼ばれている事で居心地を良くさせてくれた。
家族で頂く夕食も一緒させて貰った事も幾度となくある、この家で頂く食事は僕の処のものと同じ日本食でも少し違った。
在日家庭でも朝鮮料理だけではなく日本料理を作る事がある、でもそれは母から子へ伝わっていく味ではなく、日本の人から伝え聞いたり、何処かで学んで来たりしたもので、とりわけ僕等のような二世世代では母親の作るのは朝鮮の味で、日本の味は独自に身につけるしかなかった。
家で日本食も作っていたが、ヤスの家で頂く食事からすれば、日本風料理という感が否めなかった。
何よりも僕たちの家庭と違っていたのは食卓に上がっていたのがキムチではなくお新香だったことだ。
鯨と水菜のはりはり鍋も、菜っ葉とお揚げを炊いたんも始めて食したのはこの家の食事だった。
在日だけの家庭では、せいぜいテレビのホームドラマを参考にするぐらいしか日本の家庭の作法、習慣を知る事は出来ない、味は料理番組から学ぶという具合に我々は日本を外から見て知る事しか出来なかった。
我が家ではホームドラマがよく見られていた、TBSの日曜劇場、七人の孫など、家族が揃って観ていた、テレビに映っている家族の姿に日本を学んでいたのかも知れない、この国に住んでいようが未だ在日の家庭は朝鮮の家庭のままだった。
ヤスの家で僕が体験していたのは日本の家庭だった、ちょっとした作法の違い、お正月の箸の使い方なんかは彼の処で始めて知った。
僕たちのお正月は、日本風にお雑煮、おせちなんかも作るのだが、チェサ(祭礼)で始まる。祭壇にナムル、牛肉、豚肉、鱶肉の串焼き、椎茸を入れた薄焼き卵、小麦粉の薄焼きで野菜を巻いたもの、鯛の塩焼き、果物、菓子などを並べ、祖先に礼をする事から始め、それが終われば大人達は酒席になり、勿論、お屠蘇を飲む習慣はなく、いきなり豪快に飲み出し、子供は普段では食べれないご馳走に飽食気味までたべる、暫くすると親族みたいな人がやって来て宴会は盛り上がっていく、僕が子供の頃、我が家の正月風景はこんな感じだった。
ヤスの家の正月は僕の家の正月とは違った、寿の箸袋に名前が書かれていて両方使えるようになってる箸の使いかたとか、僕たちとは違う食事の作法、日本の人に知り合いがいて客として家に上がることはあっても家庭に上がることなど先ずない、しかしヤスの家では僕たちを家庭に上げてくれた。
在日は日本人を隣人として暮らしている、でも彼等の生活を垣間みる事はなかなか出来ない。在日だけではなくここで暮らす外国人は日本に住みながら日本の生活様式を知らないままでいる事が多い、日本人を伴侶に持ったり、知人から教えて貰ったりしながら日本の生活様式を知って行く。
僕はヤスの家へ通う事で、在日と違う日本の生活様式を知る事が出来た。
すべてはヤスの母親がいたから、在日と結婚それも事実婚をする事がまだまだ受難を浴びていた時代に別々の妻の残した二人の子を預かり、決して裕福でない母子家庭であるにも関らず息子の友達まで快くもてなしてくれていた。
何よりもここには家族があった、その家族は長屋の狭さを感じさせない凛として寛大な心を持つ母親の下で暮らしていた。
継母は僕には悪い人ではなかった。僕にはこの母しかいなかった、然し兄姉たちにはもう一人の僕を産んでくれた母がいて彼等は母を慕い、想いを持っていた。
僕の家族には同じ母から産まれた兄姉がいて、二人の母がいた。
僕は一人の母親の下にそれぞれの母親が違う兄姉たちと一つの家族で暮らすヤスの家庭に想いを寄せてたのかも知れない、ヤスの家はよく通った、自分の家に居るよりも長い時間いてたんじゃなかろうかと思う程、よく通った。
僕は一つ屋根の下の狭い長屋での一つの家族に憧れ、ヤスの母親に自分が想う母親の姿を重ねていた。
この『猪飼野物語』を書きたかったのはヤスの母親の存在を多くの人に知って貰おうと思ってからかと、ふと自分でも思ってしまう位に自分の若年期での成長過程で大きな存在の人だ、今でも健在なのかヤスとも30年以上は会ってないから知る由もない。
ただ今でも、ヤスの母親の生き様を思うと、どんな人権論者の言葉も軽く響く、彼女は何よりも身を挺してきた人だから。
改めて感謝の念を捧げます。
猪飼野物語『長屋の町(1)』

猪飼野地域では住居といえば大阪の町らしく長屋が多かった、最近は長屋を切り売りし一戸建ての家に立て替えるとこも多くなったが、猪飼野の町だった頃はまだまだ長屋の姿のまま健在していた。
七福通りを猪飼野新橋を越えて今里筋までの間が僕の住む猪飼野東2丁目地区だった。
七福通りを挟んでいたと云うよりも僕の家の方が突き出した格好で、2丁目は隣の家迄でそこから先は3丁目にかわった。
七福通りは僕らが子供の頃はもうすでに自動車が頻繁に行き交う様な道になっていたけれども、おそらくこの通りは自動車交通の為に路地を自動車道に拡張したんやないやろか、今でも細工谷の方で拡張工事は続いていて、何れ疎開道路の東も片道2車線に拡張されるはず、そうなれば嘗ての我が家の工場跡も道路になってしまう。
僕の処があった七福通りの南側の路地は家の工場、向いに製材所、その隣の我が家を挟んで材木屋、家の向えはタイル工事屋、質屋と並び路地迎えには映画館の跡がそっくりそのまんま使われていたアパートがあり、隣からは二階建ての文化住宅、そして工場跡、空き地で通りに当った。アパートの前は薪、練炭などを売る今ではあまり目に掛かる事のない燃料屋があって、そこと向えの材木屋の資材置き場が幼い僕たちの遊び場だった。
七福通りの北側は寺に沿うように長屋があって、長屋と向かい合う空き地と寺の裏手の間にお地蔵さんが祀られ、盆には空き地で盛大に盆踊りが催されていた。
僕の記憶では北側の長屋には在日の家族は住んでなかったと思う。ここら辺りの長屋の特徴は、在日世帯が入居すればその棟には在日世帯が増えていくけども、そうでないままの棟は日本人世帯だけで占めていた。
質屋の向いのアパートとそれに続く文化住宅にも在日世帯は無かったと思う、小学校に上がるまで、僕の幼友達には在日の子供はいなくて、小学校に上がって始めて在日の友達が出来た。
当時は通名を使い名前だけでは日本人と区別がつかないのに在日と解る事が出来るのは、それぞれの親、祖父母達の訛りであり、食卓に見えるキムチとちょっとした生活様式の違いだった。
家族構成が判らない家が多かった。
時代だったのか、猪飼野と言う町の特徴なのか、在日だけではなく日本の家庭も両親、親と住んでいない子供達が多かった、祖父母とかならまだしも、おじさん、おばさん、それもどう言う血縁関係なのか解らない家庭もあった、然し僕らには人の家の家族構成なんてどうであれ、一緒に住む家族である事には変わりなかった。
戦後20年も経っていない昭和30年代、まだまだ日本は復興していなかった。
物が乏しく、住宅供給も行き届いてない暮らしの中、長屋、共同炊事の木造アパートの狭い部屋に複数の家族が同居して住む事など決して珍しい事ではなかった。人も多かった、映画館の階上部分を改築した丈のアパートではいくら広い関西間とは言え6畳一間に4人家族で住んでいる友達の家族がいた。
そんな暮らしぶりを今では想像つかないだろう、まだみんな貧しかった時代だった。
煙突が残ったままの風呂屋の跡で工場を営んでた僕の家は製材所と材木屋に挟まれた二階建ての一軒家で、心持ち程度の庭と別注で工作えた少し大きめガス釜炊きの風呂があるこの辺りでは比較的裕福な方の家庭だった。風呂が大きかったのは大家族の上、住み込みで働いてくれている工員さんもいて、常に複数で入浴しなければ間に合わないと云うことからで、一人で入った記憶は殆どない。
窮屈に入らなければならない中途半端な大きさの家風呂より本当に大きい銭湯の湯船が好きだった、週に一度くらいの割で風呂屋に行かしてもらえるのが楽しみだった。
台所も今風に云えばダイニングキッチンの形態になるのだが、一升炊きのガス炊飯器と大きなガスオーブンの置かれたその姿はちょっとした厨房であり、食事のスタイルと言えば休みの日を除き、一人ずつにおかずが盛られた皿が置かれ、ご飯を戴く食堂の様な雰囲気だった、大家族の上、従業員もいた事から、そう成らざるを得んかったのだろう。
長屋に住む友達の処へよく遊びに行った。
我が家とは違う長屋の食事風景、上がり框の襖を開ければ3畳か4畳半くらいの居間件食事間があって、玄関を開けた直ぐの土間の横にある畳1畳ぐらいの炊事場から運ばれる料理を食事の都度に折りたたみの足が出される木製の円卓に並べる、中程に置かれたおかずを突つき合う食事風景。
そんな家族の姿を羨ましく思っていたかも知れない。
この町では自分の処だけが食事が揃って取れない家族ではなかった、3丁目当たりから続く長屋には一階土間の部分を少し拡げ、二階建て長屋では一階部分を機械が一台入ってるくらいの小さな工場を営んでいる家が結構あった。
僕とこみたいに食堂スタイルだと云え、賄いを作れる人がいて家で食事がとれる家庭もあれば、家族操業で食事を作る手もままならない様な家庭は賄いとして飲食店をよく利用した。
猪飼野東2丁目から大池橋近くの猪飼野東6丁目あたりまで続く二条通には多くの飲食店があった、うどん屋、一膳飯屋、中華料理、そしてこの町といえば何と行ってもお好み焼屋だ、二条通に沿っての路地にも客が一台の鉄板テーブルに寄り添うように食べてるような小さなお好み焼屋も結構あった。
金属プレスの鉄板を裁断する音や、旋盤の切りが鉄鋼に穴をあけていく金属音、溶接の火花が飛び散る音、プラスチック加工機の金型が離される音、ヘップのアッチャ機の空気圧の抜ける音、色んな音がした。
金属加工の油、溶接の火薬、ビニールをローラーで延ばす時の焼ける匂い、ヘップ工場に充満している溶剤の匂い、色んな匂いに混じりお好みの焼ける音と匂いがする町だった。
在日であろうが日本人だろうがこの町の住民の多くはそんな町の小さな工場に従事していた。
未だ公的機関や銀行が土曜日を半日就業にしていた時代、週6日は当然の事、機械の初動に電力が多く使われるため、機械を止める事をなくすための終夜労働、日曜日も、人の働いて無い時間が無いぐらい、この町は動いていた、薄利な工銭ゆえの長時間勤務、町から出る事も少なく、この町の人はここで時間を過ごしていた。
男達は仕事を終え、労いを酒屋のカウンターで注がれるコップ酒に託し、女達はお好み焼屋の鉄板を前にして疲れを癒した。
7がつく日には夜店の屋台が並んだ、輪投げ、金魚すくい、スマートボールにパチンコ、コルク銃射撃、子供達は親から貰ったお小遣いを思案しながら使い、大人達はその傍らで焼きサザエ、おでん肴に一杯引っ掛けていた。
これと云って何の娯楽施設も無いこの町に10日に一度の楽しみをもたらしてくれた。
歩くのも侭ならないほど混み合った、夜店の日。
今は路地から音も匂いも消え、商店街も灯りを落とした。
夜店の出なくなった二条通ではさとみの灯りが、お好みを焼く音と匂いを放っているだけ。





